読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

トライしてみない?

日々のほんのなにげないトライをありのままに・・・・

永六輔の思い出、上を向いて歩こうの坂本九に、高石友也の宵々山コンサート!

どもども、横浜のす~さんだよ!

 

今日TVで永六輔の特集をやっていた

坂本九上を向いて歩こう

f:id:suzuki3183:20160720012940p:plain

 

が記憶に残っているが

実は学生時代に

フォークソング高石友也

友よ、や思い出の赤いヤッケがヒットした

フォークグループが参加する

 

宵々山コンサートからの付き合いで

よくしゃべる人で面白い人だな~という印象で

大好きな人のグループに入る

 

youtu.be

 

これを聞いてみると

よくしゃべるな~~っていうのがよくわかる

 

とにかく面白い、楽しい人だった

嫌味がなくて

誰にも楽しくて

明るい話題ばかりだし

 

この人ほど

すべての年代に好かれている人は

いなかったんじゃないあなと思う

 

時代を変えて一人なんだろうなと思う

 

ご冥福を祈ります!

by青春時代のす~さん

 

 

 

1933年、代々東京・元浅草の最尊寺の住職を勤めていた永家の息子として生を受けた。江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖に持つ在日本外国人17代目と自称[5]。父や祖父は永という姓を「ヨン」と名乗っていた[5]。東京都下谷区(現・台東区)の国民学校に通っていた1944年、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村国民学校に転校し、そこで終戦を迎えた。

1946年に長野県立上田中学校(旧制)に入学するが翌年東京へ帰り早稲田中学校(旧制)に2年編入で転校。この間同校が学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。ラジオに興味を持ち、焼け跡の金属を換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループを作る。そのグループのリーダーが渥美清であった。

この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになる。また、1948年から淀川長治が主催していた「東京映画友の会」の初期の参加メンバーであった[6]。1952年に早稲田大学第二文学部へ入学。大学では民俗学者であった宮本常一の影響を受ける。在学中に三木鶏郎(『日曜娯楽版』の発案者)にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家、司会者としてデビューする。早稲田大学文学部を1952年に中退[2][7]

以後、ラジオ・テレビ番組の企画・演出や、ピアニストで作曲家の中村八大らと組んでの歌曲作詞、また軽妙な語り口を生かしたタレントとしての活動など、マルチプレイヤーとして活動を続けてきた。特にラジオパーソナリティーとしての知名度が高い。古今の芸人についての研究や、日本政府によるメートル法の厳しすぎる施行で過度に排除された尺貫法の復権を志す運動[8]佐渡島独立運動、「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)など、ユニークな取り組みも多い。

ディズニーの日本語版製作のアルバイトをしていた関係で1956年には同社のアニメ映画『わんわん物語』でチワワのペドロの声を演じた。続けて『バンビ』『ダンボ』にも声優として出演している[9]

1958年には、若手の文化人らと「若い日本の会」を結成し、安保闘争時に安保改正に反対した。当時、『光子の窓』の脚本を担当していたが、安保デモに参加して脚本を落としたために番組を降ろされている[10]

1960年代には1年間大阪で漫才作家の修行を積み若井はんじ・けんじらの漫才台本を書く。この頃にのちにやなぎ句会で一緒になる桂米朝と出会う。

1977年革新自由連合の結成に参加し政治活動にも進出。1983年6月26日執行の第13回参議院議員通常選挙比例代表区から出馬したが落選。以降選挙への立候補からは撤退している。

1994年には『大往生』を発表。日本のあちこちの無名の人々の生、死に関する様々な名言を集めたこの本は、200万部を超える大ベストセラーとなる。他に、多方面でのエッセイの著作が多数ある。2000年に、全業績で菊池寛賞を受賞。

2002年 - 2007年まで、校長が中山千夏、講師陣が永、矢崎泰久小室等という私塾「学校ごっこ」に係わった。

2008年6月、第45回ギャラクシー賞において、ギャラクシー賞45周年記念賞を受賞。

趣味は旅と読書で、特に旅に関しては1年中どこかに出掛けている。スポーツではラグビーが好きである。[要出典]

音楽ではシャンソンが好きで、石井好子との学生時代からの交友関係もあった。その一方で、演歌はあまり好きでないが「好きな演歌もある」そうである[11]

2009年に呂律が回らなくなったと『週刊女性』に報じられ[12]、そのときは加齢と入れ歯のせいだとしていたが[13] [14]、2010年になってパーキンソン病と診断されてこれを公表し、投薬治療を受けていた[15][16]。2010年9月30日には、前立腺癌パーキンソン病と闘病しながら活動を行う永を密着取材したドキュメンタリー番組『永六輔 戦いの夏』がNHK総合で放送された[17][18]。一時は引退も考えたと語る事もあったが、投薬治療されるようになってからは症状が良くなりラジオでも会話が滑らかになっていた。2011年10月20日、永六輔に近いおすぎパーキンソン病でなくバセドウ病だとラジオで語っている[要出典]

パーキンソン病の影響で歩行困難になり[17]、2006年に奄美大島で転倒して右足小指骨折し、半年間杖で歩行していた。さらに2011年11月16日夕、東京都内の自宅で転倒して大腿骨頸部を骨折し入院・手術[16]。永の強い意志で仕事は極力休まず、ラジオのレギュラーは病室からのゲスト参加や収録という形式が採られた。同12月27日、イベントへ車椅子で参加。以後、レギュラー2番組の放送・収録は病院からスタジオへ赴いた。2012年1月17日に退院、リハビリは継続して行った。

2013年、毎日芸術賞特別賞を受賞。

2016年6月27日の放送を以って「六輔七転八倒九十分」が終了し[19]、全レギュラー番組を降板した。1967年1月から続いた永の冠ラジオ番組は49年で幕を閉じることとなった。今後はスペシャル番組などがあれば出演していく予定だったが、2016年7月7日午後1時57分に東京都内の自宅にて死去していたことが同月11日に発表された。83歳没 [20][4]。医師によると「死因は肺炎とするが、老衰と言っていい状況」で穏やかな最期だったという[21]。葬儀・告別式は実家の最尊寺で7月11日、近親者で行った。お別れの会を開く予定。